ジャガイモよ、大衆のためにあれ!
※この記事は2018年1月18日に投稿されたものです
皆様こんにちは、マーケッターの小川です。
ついに2018年となりました。
みなさん、ご存知かと思いますが今年は2008年に国連が宣言した「国際じゃがいも年」から10年という節目の年になります。
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・・・えっそんなこと知らない?
では、知らない人には新たな発見を、知っている人にはじゃがいもの魅力を再発見していただく時間にしましょう。
じゃがいもの花は、17世紀フランス貴族のアクセサリーにもなった。
じゃがいもの素顔、知ってますか?
もちろん言うまでもないことだとは思いますが、まずは「じゃがいも」とは一体何者か、という説明をしておきましょう。
南米はペルーの標高4000メートルを超えるアンデス高原を原産地とする、ナス科の多年草。気候条件が厳しく、寒くて痩せている土地でもたくましく育つため、世界四大作物のひとつ(個人的にはキングオブ作物)です。
効率の良いエネルギー補給源であると同時にビタミン類やミネラルも豊富であることから、小氷河期による飢饉にあえいだヨーロッパ諸国の民の命をつないできた畑の中の宝です。
要は、「ぶち美味くて、生きるに欠かせない人生のパートナー」ということですね。
もともと毒素であるソラニンを含んでいるため、調理過程がめんどくさいという欠点がありました。が、先人たちの多大なる努力による品種改良のおかげで、芽や緑色の皮さえ取り除けばじゃがいもはまるごと食べることができるようになりました。
で、みんなどれくらい食べているのか?
わたくし小川は、じゃがいもを農家さんから直接定期購入しているため年間120キログラムを消費しております。日本人の平均年間消費量が20キロ(約140個分)とのこと。
なんてもったいない!
日本は南北に広く、同じ品種の男爵いもであっても甘さや舌触りが多種多様なじゃがいも大国。みなさんもっとじゃがいもを楽しんだほうがいいですよ。
世界を見渡すと、主に東欧諸国での消費量が多く、世界一はベラルーシの185キロ(約1250個)!ポテト大好きなアメリカでは55キロとなっています。
じゃがいも世界一周の旅
「世界を一周した作物」としても有名なじゃがいも。彼の旅をご存じの方はもしかすると少ないかもしれないですね。
時は遡り15世紀〜16世紀ころ。
南米で栄えたインカ帝国からじゃがいもの旅はじまります。
インカ帝国、スペインに滅ぼされる
インカ文明といえば世界遺産マチュ・ピチュ、、、の段々畑!
天空に少しでも近づこうと築かれた神殿や宮殿の周囲には山腹に向かって貴族の居住区、庶民の居住区と続き、そこからの断崖絶壁には美しくサイの目のように張り巡らされた水路と段々畑がめんめんと広がります。
そう、この段々畑こそがじゃがいもの栽培が盛んに行われていた場所。
当時から主食としての地位を揺るぎないものとしていたジャガイモは、もちろん今でも山手に住む現地の方の主食でもあります。ソラニン含む水分を脱水させた乾燥イモ(チョーニョ)はコリコリしてスープによく合うんです。うんまぁ
本筋に戻りましょう。
金や銀が豊富であった黄金郷インカ帝国は、大航海時代の覇者スペインに攻め入られ占領されてしまいます。神殿や宮殿にあった金の装飾品は延べ棒に加工され、船で送られていきました。そのときの船乗りがお土産としてポケットに入れて持ち帰ったのがジャガイモ。
アメリカ大陸から旧大陸への上陸です。
オランダを通りジャカルタ、そして日本へ
スペイン経由でヨーロッパに広がっていきますが、その経路は定かになっていないのですがオランダ船員によって海路を通り、ジャワ島のジャカルタへ。そして日本へとつながりました。
日本語の「ジャガイモ」はジャカルタからきているんですね。
ペルーからは地球半周を旅してきたじゃがいも。
当時の日本は本土から北海道への入植を政府自身が強くすすめいた時期であり、その入植者たちの開墾を大いに手助けしたのも、まさしくじゃがいもです。
ただし、北海道への入植とじゃがいもの歴史は、公害という悲しい歴史と切っても切り離せないことがあり、、、このお話はまた次の機会としましょう。
イギリス、アイルランドからアメリカ大陸に帰還する
話は戻って17世紀のヨーロッパ。
じゃがいもの歴史を語る上で欠かせないのが、、、そうアイルランドですよね。
イギリスからの圧政に苦しんでいたアイルランドは別名石の国。土地の多くが岩盤でできており、土というものが少ない。さらに海風に常にさらされつづけるために、岩盤を切り立てて海風をしのぐ岩の壁にかこまれていることから石の国と呼ばれています。
ただでさえ作物の収穫がのぞみにくい土地柄のうえに、英国王への貢物を強く徴収されつづけていたために、畑の3分の2で作る小麦はそのすべてを収めていました。
では、アイルランドの庶民は主食に過ごしていたのかというと、畑の残り3分の1で作ったじゃがいもだったのです。というより、少ない畑面積で十分な栄養価を摂るためにはじゃがいもしか選択肢がなかったのでしょう。
ジャガイモは、常に庶民の味方でありつづけたんですね。
そんなアイルランドのじゃがいもは、かの有名な「ジャガイモ飢饉」によってアメリカへ移住したアイルランド人によって北米に到達します。
こうして、南米ペルーで生まれたじゃがいもは、歴史の激動とともに世界を渡り歩き、アメリカ大陸へと戻ってきたのです。
北の大地で、金色のスイーツに出会う
さて、少々じゃがいもの歴史話が盛り上がってしまいましたが、この続きはまた次の機会としましょう。
せっかくですので、最高においしいジャガイモ料理をおすすめして今日の話のシメとさせていただきます。(まだ続くよ!)
じゃがいも好きの隔世遺伝
そもそも、なぜ小川はこんなにもじゃがいもが好きなんでしょうか?そのルーツは母方の祖父にありました。
私自身は年間120キロ食べると言っても毎日食べているわけではないんですが、私の祖父は毎日、いや朝食から晩ご飯まで何かしらじゃがいもがメニューにないとすぐに不機嫌になるほどのじゃがいも好きでした。
聞いた話によると母が小学生のある日、たまたまじゃがいもを切らしていて朝食の味噌汁にじゃがいもが入ってないことを知った祖父は、ちゃぶ台返しをするほどにキレたそうです・・・その気持ち、すごく分かる。
ちなみに母方は北海道の生まれ。
男爵いも、キタアカリ、ベニアカリ、インカのめざめ、十勝こがねと様々なじゃがいもが楽しめるユートピアです。そんな祖父の血を強くひいたのか、祖父に並んでじゃがいも好きになってしまったのです。
(ぜひベニアカリのコロッケは作ってみてください。マジでおすすめです。)
出会いは、中山峠。ということは・・・
そんな家系の小川がじゃがいものおいしさに目覚めたのが、北海道の中山峠。
あれは確か小学校に入学したかしてないかぐらいの頃でした・・・
母方の実家にある札幌に遊びに行った際に、スキーをしに父親と弟と三人で中山峠の山中を走っていたときに見つけたのです。「あげいも」と書かれたのぼりをたてた小さな山小屋を。
あげいも。
某県民の特性を紹介するTV番組で紹介されたことから全国的にも人気になりましたが、当時はまだまだローカルなB級グルメでした。有名なあげいもは道の駅で売られているものだと思いますが、私が愛してやまないあげいもは道の駅のものではありません。
しんしんと降り積もる雪に今でも押しつぶされそうなほどのこじんまりとしたまさに山小屋。そこで腰の曲がったおばあちゃんが注文のあるごとに揚げてくれるあげいも、それこそが小川がじゃがいものおいしさに目覚めた一品です。
あげいも特有の3つのじゃが玉を串に一列に刺したフォルム。
こげ茶色のカリッとした衣をサクッと噛むと、
中からは熱々の湯気がフワッとのぼります。
現れたのは金色に輝くジャガイモ。
その甘さはスイーツと呼んでも過言ではないほどに、
寒空の下で赤くなったほっぺをとろけさせてくれます。
これからのジャガイモとの付き合い方
日本ではジャガイモ、英語ではポテト(potato)。
一方で栄養たっぷりで甘みのある作物であることから、フランス語ではじゃがいものことを「大地のりんご」(ポム・ド・テール)といいます。
これまではどんな土地でもおいしく育つたくましさから、庶民の、特に貧しき大衆の主食として激動の歴史の中をくぐりぬけてきたじゃがいも。ですが、先進国では飽食の時代に入った現代では少しじゃがいもとの付き合い方を変える必要があるかもしれません。
それでも途上国ではまだまだ貴重な栄養源であるジャガイモを通して、持続可能な発展を考え直す契機となった2008年の「国際じゃがいも年」から10年。
わたしも自分の健康をきちんと見つめ直し、高いパフォーマンス発揮し続けられるような身体づくりに励もうと考えております。
では、(みなさんが気になってるでしょう)じゃがいもの歴史の続きは次の機会に。それでは!